ヨーガスートラとバガヴァッドギーター

皆様こんにちは。
今年もあと一ヶ月と少しとなりました。
早いですね。
忙しくなる年末ですが、毎日を丁寧に過ごしたいものですね。

今期のDG会では先回・先々回とバガヴァッドギーターとヨーガスートラの概要をお伝えするクラスとなりました。
この回の講義を受けて、「もう一度読みたくなった」「以前より読みやすくなった」と意見を多数いただきました。

皆様が少しでも、興味を強めて頂けたのなら嬉しい限りです。

ということで今回は、「ヨーガスートラとバガヴァッドギーター」について簡単に書きたいと思います。

ヨーガスートラは聖者パタンジャリによって紀元後4-5世紀に編纂された、ヨーガの経典と言われる書です。
このヨーガスートラはインド六派哲学の一つである、ヨーガ学派の経典と言われています。
このヨーガスートラの背景にはサーンキャ哲学があり、同じく六派哲学の一つのサーンキャ学派の考える世界の在り方・世界観をある程度知らないと理解が難しいと言えます。
このサーンキャ哲学はその他のインド哲学学派においても世界観のベースにもなっています。
どちらにしても知っておいた方がお得です。

この辺りを、今期までのDG会では重点的にやってきました。

ヨーガスートラでは冒頭で、
「ヨーガは心(チッタ)の作用(ヴリッティ)を止滅(ニローダ)することである。」
という宣誓文にてヨガを定義しています。

では、チッタは何でしょうか?

チッタとは、自分の内側で渦巻くいろいろ、ブッディ(判断する器官)・アハンカーラ(偽りの私感覚)・マナス(思索器官)の総称です。

何故、チッタヴリッティをニローダするのでしょうか?

それは、真実の私(プルシャ・アートマン)を見失わせている「偽りの私」に気付くためです。
「偽りの私」を「真実の私」と見誤る事をヨガでは無知といい、悩みの元になります。

その一つの方法として、ヨーガ学派は「心集中」を本命に掲げています。

すると、
本当の自分に出会えます。
本当の自分になれます。
と言うより、
本当の自分に気付けます。

それを「自己実現」と言います。
本当の意味での幸せを悟った状態です。

その為の理論と方法を示した書がヨーガスートラとです。

第2章に「アシュタンガ(八枝則)」としてヨガの取り組み方が非常に解り易く?説明されていて、スタジオなどで行われている現代のハタヨガなど、殆どのヨガがこのヨーガスートラの影響を受けていると言えます。

そのヨーガスートラの1-7に
正知(プラマーナ)の拠り所は、直接体験・推論・聖典による。
とあります。

正しい知識、知識の拠り所について、直接体験することが重要な事はどなたも理解できるでしょう。
推論、つまり推理することは「煙がみえるから、近くに火元があるだろう?」という感じで、正しい知識に向かう為には大切ではあります。
しかし、その推論をどの様に導き出すのでしょう?
今までの人生で体験した事と学校などでで習った事???(この様にヨガを理解してしまっている人が非常に多いのが気になります。)

違いますね。
ここで第3のプラマーナ、聖典の意味が出てきます。
ここでの聖典は「ヴェーダ」の事です。
ヨーガ派はヴェーダの権威を認めているからこその正統六派哲学なのです。

では、ヴェーダはどのように勉強すれば良いでしょうか?

ここで、バガヴァッドギーターの出番です。

バガヴァッドギーターはインドの大叙事詩「マハーバーラタ」の一部に収められています。
ヴェーダ聖典(シュルティ)とは違いますが、ヴェーダのエッセンスがここに示されているため第5のヴェーダと言われるほど、インド精神界では重要な書物です。
5,000年程前の歴史上の事実を記した「マハーバーラタ」は聖者ヴャーサにより紀元前5世紀~2世紀頃に記されたと言われています。

クルクシェートラで起こった身内同士の戦争を前に苦悩するアルジュナに最高神の化身であるクリシュナがアドヴァイスする、という形式で話は進みますが、
日本人の私たちには、この戦争がどんな戦争で、誰と誰が何故戦っているのか?
アルジュナを諭している人物であるクリシュナが誰なのか?
が解らなければ、意味が解らないか、危険な解釈へと進む可能性もあると言えます。

しかし・・・

日本人の私たちがヴェーダの学習をするのはもっと困難です。
ヴェーダの内容はあまりに多岐に渡ります。そしてあまりに膨大です。
ギーターはヴェーダのエッセンスを絞り出してある書です。
バガヴァッドギーターを勉強するのが結果ヨガを理解する一番の近道と言えるのです。

ヨーガとは???

カルマヨーガ・ギャーナヨーガ・ラージャヨーガ・バクティヨーガ

取り組み方は違いますが、ギーターを勉強すればすべて同じゴールに向かっている事が理解できるでしょう。
それぞれの意味と外してはならない部分、ヨガについていろんな事が学べます。

すると、ヨーガスートラで、
「ヨーガは心の作用を止滅する事である。」
の本意が見えてくるのです。

その他、ヨーガスートラにある、クリヤーヨガの重要性、アシュタンガにあるヤマ・ニヤマなど、するべき事(ダルマ)の重要性、などなど・・・

ヨガを好きになり勉強を開始すると、まずヨーガスートラ・・・
と言うのが順当のようですが、実はバガヴァッドギーターを知っておいた方がヨーガスートラの意味をすんなり理解できるのです。

西洋に初めてインド思想とヨガという考えを広めたヴィヴェーカナンダ師も、このバガヴァッドギーターとヨーガスートラを用いたと言われています。
偉大な先人が行った方法には必ずや意義が見いだせますね。

来季のDGトレーニングコースでは、このヨーガスートラとバガヴァッドギーターからヨガの学びを深めます。
しかし、難しいお話ではありません。
普通に聞いても楽しめる様に工夫を凝らします。
アーサナなどの行法も同時に教授いたします。

ヨガに興味が出て来て、少し勉強を深めたくなった方。
スートラやギーターは持っているけど、自力で読めていない方、いまいち理解が出来ない方。
是非、同じ志を持った仲間と共に勉強する時間を持ちましょう。

エントリーお待ちしております。

詳しくは・・・「こちら」をご覧ください。
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# by uz-ni-chan | 2017-11-24 13:56 | Yoga

知識(ヴェーダ・ヴィディヤー)

ヴェーダはヴィド(知る)という言葉から派生した言葉で、知識・知る手段などの意味をもち、インドに伝わる聖なる知識です。


その文献はシュルティ(天啓聖典)といわれ、「聞かれたもの・・・」という様な意味です。

人間が考え出したのではなく、知った(聞こえた)だけなのです。


それを、啓示と言えばそうでしょうが、科学的な発見もすべて同じですね。

全ての発見は人間が創ったのではなく、そこに在ったことを見つけただけなのです。


なので、ヴェーダは人間が考えたのではないから哲学じゃない!という意見もあるほどです。


なるほど・・・そうとも言えますね。

相対性理論の発見は哲学じゃないですもんね。


しかし、科学は元々哲学の延長線に出来上がったともいえるので、兄弟のような関係です。

やはり、区別しているのは人間であり、言葉でしかないのかもしれませんね。


ヴィディヤーも元を同じくした言葉で、知識以外に学問などの意味もあります。

余談ですが、サンスクリット語で学校の事を「ヴィッディヤーラヤハ」なんて言います。

ヴィッディヤー(知識・学問)、アーラヤハ(家・場所)です。


そのヴィディヤーのア(否定)がアヴィディヤー(無知)ですが、ヨーガスートラには、

「無知とは、無常を常、不浄を浄、苦を楽、自己ならざるものを自己とみなすことである。」Ⅱ-5

とあります。

これらの対は全て同じことを言っています。

つまり、真理と真理でない事の見誤りです。


非常にシンプルなのですが、シンプル過ぎて見誤り易い事でもあります。

これら真理とそうでない事を見極める能力、識別力のことを、「ヴィヴェーカ」といいます。


例えば、

無常(変わりゆくもの)と常(変わらないもの)の見誤りは、

「明日は今日と同じようにやってくるはず・・・」

などの考えです。


そんな事は無い、明日が同じ様にやってくるとは限らない、そんな事は分かっている!

と言うかもしれません。

しかし、本気で思っていたら、毎日をもっと真剣に丁寧に生きるでしょう。


つまり、「するべき事と、せざるべき事」が分かるようになります。

これを、「カーリヤーカーリヤ(カーリヤ アカーリヤ)ヴィヴェーカ」と言います。


何か失敗をして落ち込んだとき、「私なんて生きている価値は無い・・・」

と思い詰めるのも同じ無知が原因です。

失敗する前とした後、自分という存在は何も変わっていないのにもかかわらず、そう思い込む事。


何が、無常で何が常か?

これを見極める能力・識別力を「ニッティヤーニッティヤ(ニッティヤ アニッティヤ)ヴィヴェーカ」と言います。


原文では常は「ニッティヤ」です。

これは、常と言う意味以外にも永遠と言う意味を持ちます。

変わらない=生まれも死にもしない=永遠

です。


自己ならざるものを自己とみなすこと・・・

も全く同じ意味です。


「あなた、変わっちゃったね・・・」

友達同士でよく交わされる気まずいセリフ。


たいていは、変わってしまった友人への批判で言うのですが、

これは、無知のなせる業です。


人間は変わります。


変わっちゃったね・・・

というあなたも変わっているのです。


この俗世に変わらない物など何もありません。

変わらないのは、それらを認めている本質のみ。


つまり、自己(アートマン)のみです。


自己=変わらない=生まれも死にもしない=永遠

しかし、肉体などの私感覚は無常です。


その私感覚をもってして「私は変わらない!」と決めつけているその考えが無知なのです。

むしろ、変わっていくように見える友人のほうが、ダルマです。


友人を語るなら、あなたも私も変わっていくけれど、それでも変わらぬ本質においては一つであると知ることが大切です。

これが理解できるならば、全ては友人であり、友人ではありません。

それらは、ただの言葉による区別です。


この世界、周りの全て、周りの人々には、一瞬、一瞬のご縁を精一杯向き合うのみ。

一期一会

それ以外に方法はないのです。

夫婦や家族ですら一緒です。

永遠の愛は、「誓ったから」「戸籍を入れたから」存在するのではなく、今の絶え間ない努力の繋がりです。


肉体的には永遠の関係は存在しません。

それを、無理に約束しようとしたり、無理強いするからこじれるのです。


今の連続が未来です。

変わらぬ関係などないのです。


1人では孤独だ・・・

だから、友人は多い方がいい・・・

そんな杓子定規な固定観念なんて捨ててしまいましょう。


というより、元々私たちは本質において永遠で一つなのだから。。。

繋がりに執着する事自体が無知であり、悩みや争いを生むのです。


友達は多くても少なくてもいいのです。


それよりも、アヒムサーであり、サティヤである事が大切です。


真理のみが本当の友達だからです。


トヴァメーヴァ マーター チャ ピター トヴァメーヴァ

トヴァメーヴァ バンドゥス チャ サカー トヴァメーヴァ

トヴァメーヴァ ヴィディヤー ドラヴィナン トヴァメーヴァ

トヴァメーヴァ サルヴァン ママ デーヴァデーヴァ


あなただけが、母であり、父、あなただけが・・・

あなただけが、親族であり、友人、あなただけが・・・

あなただけが、知識であり、宝、あなただけが・・・

あなただけが、私の全て、おぉ、神よ、神よ・・・


美しくて大好きな句をご紹介しました。


あなた=母=父=親族=友人=知識=宝=私の全て=神

なんです。


だから、戦争もダメだし自殺もダメ、肉食も控えるべきなのです。



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# by uz-ni-chan | 2017-09-03 20:38 | DG 勉強会

アートマン(真実の自分)

先日紹介しましたが最近、「初心者向けヨガ講座」というのをレギュラーレッスンHPで更新しております。

良かったら、読んでみてください。


上記の講座でも「真実の自分(アートマン)」の説明を簡単にしましたが、このブログではもう少し慣れた方向けに書きたいと思います。


プチヨガ哲学講座です。(^^)


さて早速始めます。

ヨガの目的でもある、「真実の自分」の事をサンスクリット語で「アートマン」と言います。


アートマンをプルシャとも言います。

プルシャは「人」程度の意味でも使いますが、ヨガ哲学として語られる場合は、アートマンと同義と捉えて良いでしょう。


その真実の自分であるアートマンは「観る者」と表現されます。

この世界(俗世)のその他の全ては「観られる者」です。

※観られる者を「プラクリティ」と言います。


自分で認識できるものは全て「観られる者」です。

真実の自分は「観る者」であって決して「観られる者」にはなり得ません。

つまり、五感(聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚)では絶対に知覚できません。

それは、「目は自身である目を見る事はできない。」「刀は自分で自分を切れない。」などと例えられます。


皆さんは、自分の身体は知覚出来ますよね???実際見えるし触れますもんね。

自分の心は???掴みどころはないけれど、解りますよね?

自分の思考は???「私の考え」、「私のアイディア」なんて言うくらいだから知覚の範囲内ですね。

つまり、自分で分かっている自分は全て「真実の自分ではない」のです!?

それらは、「偽りの自分(アハンカーラ)」とヨガでは言います。

衝撃の事実ですね。(^_^;)


本当の自分に気付く方法であり修練がヨガなのに、知覚出来ないならヨガなんて意味がないのでは???

そう思いますよね?

実際そう考える人達もいます。

ヨガ=体操の様なポーズ…

と思っていればそうかもしれませんね。


五感で知覚出来ないなら、行為ではたどり着けないという事になりますので。


そう考える人達は、「知識」によってアートマンに迫ろうとします。

その知識を伝えるのが、「ヴェーダ」と言われる聖典です。


しかし、その聖典ですら、知覚出来ないアートマンの説明は逆説的になります。

つまり・・・

「それはあなたとは違う、それも違う…」とアートマンでない物を否定していく方法でしか、説明が出来ないのです。

違うという根拠が事実としてある以上、「それは真実のあなたではない」としか言いようがないのです。


それらをすべて否定した(自己否定)末にそこに在るのが、「真実の自分」なのです。

※自己否定と言っても、偽りの自分の否定ですので非常に前向きな行為です。


その真実の自分は・・・


サット・チット・アーナンダ


だと、聖典は言います。

サット・・・真実・実在・善い・純潔な・至高精神・・・

チット・・・意識・知性・純粋・魂・・・

アーナンダ・・・幸福・喜び・至福・至高・神・・・


良い悪いなどという二元性を超えたその存在は「に非ず、に非ず…」と表現をする以外にいろんな表現を尽くして表そうとしています。(言葉では表現できないのが本性ですが・・・)

それが、サッチダーナンダ(サット・チット・アーナンダ)なのです。


しかし、ただ頭で知っても???な人も多いのでは?


なので、「行為」によって経験的に

「これは自分じゃない、これも違う・・・」

と身をもって学んでゆくのです。

ここに、行為として取り組むヨガの意味が出てきます。


ヨーガスートラにあるアシュタンガにも「スヴァディヤーヤ」という項目があります。

頭で知って、経験でも納得する事。

それが大切なのです。


そして、それらの知識と経験による気付きによって、無駄に背負い込んでいる重荷を減らしてみて下さい。


重荷(肩書きや思い込み)が減るほどに、「サット・チット・アーナンダ」なあなたに近づいていることでしょう。


それまでは、真実の自分は「真実で、全てを知っていて、喜びでしかない存在」なんだ!と信じてヨガの修練を積んでみて下さいね。


気が付けば「ダルマ」の道に則って進んでいる自分に気付くかもしれませんね。(^_-)-☆


で・・・

偽りの自分と知った自分の身体やら心やらという物たちとどう付き合えばいいか???

真実の自分じゃないからどうでもいい???


いえいえ、

「それらはあなたです。」

から。。。

全てに対して、丁寧に愛をもって向き合ってくださいね。(^_-)-☆


これが納得できれば、大したものです。

ヨガが深まっている証拠ですね。


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# by uz-ni-chan | 2017-08-28 16:04 | DG 勉強会